卒論ネタ

とある歴史学徒の卒業論文―「フランス第三共和政のなかのアリアンス・フランセーズ」

卒論ネタ

この記事では、僭越ながら、現在文学部4年生で春から社会人となる筆者が提出した卒業論文「フランス第三共和政のなかのアリアンス・フランセーズ―『植民地党』的性格の変容を中心に」を紹介したいと思う。

諸先生方、諸先輩方のものに比べれば、歴史研究に少し毛の生えたような、大した出来でもない卒業論文ではある。だが、本誌編集部の先輩から、「卒業して就職してしまう4年生の卒論が外部に発表されることはほとんどないから試しにやってみないか」と誘われたのをきっかけに、今回の記事を書いてみようと思い立った。どうかそのあたりを承知の上で、読んでいただければ幸いである。また、これを機に、他にも卒業論文を発表したいという声があがるのを期待している。

 

アリアンス・フランセーズとは?

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まず、テーマであるアリアンス・フランセーズ(Alliance française;以下AFと略記)とは一体どのような組織なのか。AFは、1883年に設立された民間のフランス語教育機関であり、この種の組織としては世界最大規模のものである。現在の正式名称を、「外国へのフランス語・フランス文化普及のための全国協会(Association nationale pour la diffusion de la langue et de la culture française à l’étranger)」という。フランスではかなり有名な組織で、日本にも支部がいくつかあるので1、ご存知の方も多いのではないかと思う。2009年時点で世界135か国の1,070ヵ所が設置され、うち255ヵ所が外務省と郷署を交わし政府の補助を受けている。2008年には461,000人の外国人学生にフランス語の授業を行い、同年の予算は238,000,000ユーロ、そのうち授業料徴収や寄付金、民間からの資本などの自己収入が80%を超えている2

では、なぜAFが歴史研究の対象になるのか。その理由は、第一に、19世紀末のAF成立がフランス植民地主義と深いかかわりを持っているからであり、第二に、AFが現代フランスの対外文化政策に深くかかわっているからだ。それゆえ、従来のAFに関する歴史研究は、

①19世紀末を対象とした植民地史研究
②20世紀後半を対象とした国際文化関係史研究3

の二つに大きく分かれてきた。だがここには、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時代が考察されておらず、両分野の間に学問上の壁が残ったままであるといった、歴史研究上の時代的・領域的断絶が存在している。そこで、この二つの断絶を埋め合わせられないかと試みた論考が、筆者の執筆した卒業論文だった。以下では、ごく簡単にだが、論文の内容に踏み込んでみたいと思う。なお、AFに関する数値などの基本情報は、最新のAF研究を表したフランソワ・ショベによっている4

植民地主義とアリアンス・フランセーズ

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AFと植民地主義との関わりで必ず言及されるのが、1883年のチュニジア保護領化である。19世紀前半に併合したアルジェリアの側面を固めるという意図もあって、1880年頃からチュニジアに進出したフランスではあったが、地理的にイタリアに近いチュニジアには、フランス人に比べてイタリア人入植者が圧倒的に多かった。その数が逆転したのは、20世紀に入ってからである。だが、植民地当局はフランスの影響力を高める必要があった。そこで提唱されたのが、チュニジアでのフランス語の普及であった。そして、そのための組織として、AFが設立された。それゆえ、設立当初の正式名称は「植民地および外国へのフランス語普及のための全国協会(Association nationale pour la propagation de la langue française dans les colonies et à l’étranger)」となっており、活動目的も、植民地・保護領でのフランス語普及と海外でのフランス人種の増加=フランス語による植民地征服という点が強調されていた。AFは、19世紀後半のフランス帝国主義の時代に生まれた、植民地拡張勢力だったのである。

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ここで、論文の副題にもある「植民地党」について説明しておこう。「植民地党(le parti colonial)」とは、フランス植民地史の重要概念であり、国民議会議員を中心に、政府高官や植民地官僚、地理学者、軍人、財界人、ジャーナリストなど、植民地に利害をもつ多様な社会階層・職業の人々からなるような、フランス植民地拡張の圧力団体の総称である。特定の政党や団体などを指す名称ではないことは、強調しておきたい5

では、設立当初のAFは「植民地党」だったのだろうか。植民地史研究者の間では、大方がこの見解に賛成であるようだ6。それはまず、20世紀初頭までのAFが植民地関連事業に注力していたからである。当時の具体的な活動は、植民地でのフランス語教育支援に加えて、本国内での万国博覧会・植民地博覧会の企画、植民地に関する出版物や講演会の実施といった植民地プロパガンダがあげられる。また、理事会人事構成をみても、フランス植民地に関係を持ちながらも、政府高官や著名な政治家、地理学者、司祭、財界人など、政治的・宗教的に多様な背景を持つ人物が集まっている7。この点でも、多様な出自を持つ人々により形成された植民地党と類似性を持っている。こうして、設立当初のAFを「植民地党」の一つとして定義できるわけである。

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ただ、20世紀初頭までに、AFの活動範囲は北米や中近東など諸外国=非植民地での方が活発ではあった。実際、理事会内部でも、活動のさらなる国際化を推進する立場と植民地に固執する保守的な立場が対立していた。北アフリカやブラック・アフリカ、インドシナなど、植民地での活動はむしろ失敗していた。だが、AFの植民地事業の停滞は、自らの正当性を強調するため、フランス本国内でのプロパガンダにいっそう注力するという、逆説的な結果を招いた。AFによる植民地プロパガンダは、20世紀初頭でも活発であった8。このように、20世紀初頭までのAFは、現在のようなフランス語教育機関というよりは、「植民地党」としての性格の方が強かったのである。

第一次世界大戦とアリアンス・フランセーズ

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フランス・ドイツを中心にヨーロッパ諸国に甚大な被害をもたらした第一次世界大戦は、当然ながらAFにも大きな影響を与えた。20世紀初頭から将来的な方向性を定めかねていたAFに対して、戦時中の政府はフランス国家のための戦争宣伝という役割を与え、それまでにない大量の補助金を支給したのである。その額は240,000フランにのぼり、1922年までにAFの年間予算は戦前の約6倍に達した。それに伴い、AFの活動や姿勢は政府よりになっていく。1920年代から1930年代にかけて、アフリカなどの植民地ではなく、中南米や中東欧の諸外国に焦点をあてて、フランス語教育を精力的に行うことのできる素地が、政府の強力な財政支援によって形成されていく。

本論の目的がAF研究の時代的・領域的断絶の克服にあるため、筆者は、第一次世界大戦から戦間期にかけて、AFの組織としての性格変容を観察することにした。そしてその立証材料として、第一次世界大戦を契機とした政府からの公的財政支援の増大、AFの活動領域の拡大・変化、理事会人事の変遷など、いくつかの事例を分析した。こうして、「植民地党」から「対外文化政策機関」へ、という一組織の変質を描こうとしたわけである。続いて、AFが組み込まれることになった「対外文化政策」について説明しよう。

対外文化政策とアリアンス・フランセーズ

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「対外文化政策」とは、現在でいうところの「文化外交」に属するもので、主に「政府関係者が国家の対外的な政策目的のために、文化のある面を意図的に利用すること」というような意味だと考えていただければいいだろう。当然、フランス政府が最重要視している海外でのフランス語・フランス文化教育もこれに含まれる。現在では、テレビやラジオでのフランス系番組の提供、映画・音楽・芸術の輸出などが、インターネットも利用して加速度的に行われている。そしてAFに関連させて言えば、20世紀初頭までは「植民地党」としての活動が目立ったが、第一次世界大戦をきっかけとして、戦間期には政府の意図に忠実なフランス語教育機関=文化政策機関として発展していった。繰り返すが、これが本論の立証したい仮説である。

では、いまや文化外交のモデルとなっている文化大国フランスの対外文化政策は、どのようにして発展したのだろうか。参考文献として、日本語では、フランス現代史専門の教授で在仏日本大使館勤務経験もある渡辺啓貴氏の著書が、フランス語では、最初に紹介したショベのほか、フランス外務省の後援で出版された公式文献がある9。それらによれば、フランスの対外文化政策は16世紀のオスマン帝国時代にまで遡れるが、現在われわれが想定する近代的な対外文化政策が始まったのは、1905-1910年頃であるという。この時期になって、1870年普仏戦争敗北後、国際的な威信回復を狙ってきた政府が、AFなど民間組織が活発な対外文化活動の領域に本格的に参入してきたのである。外務省・内務省内に担当部署が設立され、外国の諸都市にも政府系の文化・教育機関(「学院(Institut)」など)が設置された。換言すれば、それは「対外文化政策の制度化」の始動であった。

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こうして20世紀初頭に始動したフランスの対外文化政策は、国際協調主義の流れの中で各国の対外文化政策が活発化する戦間期において10、いよいよ発展した。情報戦の様相を呈した第一次世界大戦では、欧州諸国が戦争プロパガンダや検閲のために、情報局や文化統制局などの機関を設置したことはよく知られているが、戦間期の対外文化政策もこの延長にあると考えられる。フランスでは、戦前に外務省内に設立された担当部署が改組され、より強力な権限を持つ「海外フランス事業課(Service des œuvres françaises à l’étranger;以下SOFEと略記)」が新設される。1930年代後半までに、SOFEは外務省予算の実に20%を運営するようになった。そのほか、国際連盟の文化活動にも多額の出資を行い国際機関のパリ誘致を成功させたり、AFを含む在外文化・教育機関への資金援助を行うなど、まさにフランス対外文化政策の「頭」であった。SOFEの活動は、第二次世界大戦後から現在に至るまでのフランス文化外交の基本となっているのであり、その意味で、フランス対外文化政策は1920-1930年代にかけて、その制度化が一応の完成をみたといえる。

戦間期、AFは、こうした「対外文化政策の制度化」のなかに取り込まれてゆく。「植民地党」としてのAFの役割は、もはやそれほど目立たない。植民地での活動は依然として残っているものの、1931年パリ国際植民地博覧会の展示にはほとんど関わっていない。一方で、民間組織という肩書は保ちながらも、1920-1930年代に政府系機関が多く進出した中東欧や中南米において活動を活発化させ、学院や大学教員、外交官、領事との協同事業を行うようになっている。それらの活動は、現在のAFとほとんど相違がないように見える。戦間期を通して、AFは「民間の植民地党」から「国家の対外文化政策機関」へと変貌を遂げたのである。

だが、「植民地党としてのAF」と「対外文化政策機関としてのAF」の間に連続性もあることは、触れておかねばならない。「文明化の使命la mission civilisatrice」というのはフランス植民地主義の重要な理念であり続けたが、この概念はフランスの対外文化政策にもあてはまる。AFへの強力な財政支援を可能にした人物の一人として、1920年代に首相・外相・AF会長を兼任したレーモン・ポアンカレがいるが、彼はフランス語が文明と進歩の言語であるとの見解を述べている。また、近年批判されているフランス文化外交のあり方として、フランス的価値観の一方向的な押しつけ=「威光の外交(la diplomatie de rayonnement)」があるが、これは「文明化の使命」の延長線上にある考え方である。こうして見ると、AFの組織的変質過程には、その根底を流れ続けるフランスなりの「文明」思想があることが確認できるのである。

【おススメ参考文献】

最新のAF研究。第三共和政期フランスの文化外交政策の変遷を、国際関係と絡めながら知るには最良の文献。CHAUBET, François, La politique culturelle française et la diplomatie de la langue : L ’Alliance française 1883-1940, Paris, L’Harmattan, 2006.

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日本のフランス植民地主義研究の第一人者がまとめた通史。学術的ではあるが読みやすく、入門書として最適。平野千果子『フランス植民地主義の歴史―奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』人文書院、2002年。

chikako hirano colonisation francaise在仏日本大使館勤務経験をもとに、フランス現代政治史の第一人者が解説する、フランス流「文化外交」。最近の「クール・ジャパン」ブームを客観的に見ることができる。渡邊啓貴『フランスの「文化外交」戦略に学ぶ―「文化の時代」の日本文化発信』大修館書店、2013年。

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卒業論文執筆を終えて

さて、以上のような内容の卒業論文を書き終えたわけだが、最後に学部4年の筆者から見た卒業論文について少し述べておきたい。

文科系の卒業論文で要求されるのは「論理力」と「語学力」だということはよく聞く。就職活動の面接で「文学部に入って身についたことは?」と聞かれたときに、そのとりあえず二つを答える学生もそれなりにいるのではないだろうか。だが筆者は、この二つに加えて、「調査力」と「発想力」の二つも、文科系、特に歴史系論文ではかなりの部分要求されるものであると、今回の卒業論文執筆を経て実感した。

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まず「調査力」に関しては、論文を執筆するに足る知識や情報(先行研究の有無、研究史、必要な史料や数値データ、文献の保管場所と内容、求められる語学力、専門とする先生や先輩の存在など)をどれだけ多く、そして的確に手に入れているかということに尽きる。そもそも調査という下準備がなければ、論文のテーマをまともに絞ることもできない。初めて論文を書く学生のなかには、案外この前提条件をすっ飛ばして、少数の表面的な文献だけでいきなり論文を書き始めようとする人も多いように思う。単なる怠惰だけでなく時間の制約など様々な理由はあるだろうが、自分である程度満足のいく卒業論文を仕上げるならば、この調査という作業は不可欠だ。当然、口頭試問の場でも、事前準備の成果が目に見える形で表れているか=研究史の流れの中で自分の論文の立ち位置をどれだけ明確に示しているかという点に関して、教授たちから評価が下される11

化学・生物学であれば実験が「調査」であり、社会学や文化人類学ではアンケートやフィールドワークが「調査」である。これらを欠いた生物学や文化人類学はありえないことは常識だ。同様に、歴史学の調査とは研究史整理と基本文献の渉猟である。あるいはまた、普段のアルバイトにしても、そして社会人になってからでも、仕事の下調べや下準備を迅速にかつ的確に行う能力はもちろん必要だろう。それらを考えれば、文学部の卒業論文でも、調査という作業が重要だということが認識してもらえるのではないか。

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また「発想力」は、卒論のオリジナリティという、最も肝心かつ最も悩ましい部分で発揮される。当然ながら、それは十分な調査があって初めて実現できるものだ。それでもなお、「オリジナリティは?独創性は?」と求められてかなりのプレッシャーを感じてしまう人も多いはずだ。だが、歴史研究に限れば、オリジナリティの出し方はそれなりに数はあるように思う。例えばここで紹介した論文では、「研究史の欠落を補完する」という方向性で自分なりの見解を打ち出したわけだが、もちろん他にもある。一言で「通説批判」といっても、批判の方法(新たな史料の提示、複数見解の組み合わせ、文化人類学や社会学といった他分野知識の応用など)や批判の対象(序論部分、方法論、結論部分など)は様々で、十分な調査を事前にしていれば、こうした自分なりの見解を打ち出すのはそれほど困難ではない。
ただ、間違っても「奇抜な発想をしよう」と思わないことは重要だろう。そうした意見は多くの場合、既存研究が少なく論証が不十分になりがちで、教授の求める水準に達しないことが多い。筆者も、そのようなテーマを選んだために友人が苦労しているのを目にした。あくまでも、まずはじっくりと既存研究・研究史の理解に専念し、それぞれの見解の微妙な食い違いや新見解を発掘する作業が必要だろう。新たな展望が開けるのは、そのあとであるように思う。

同様に、余はいかにして卒業論文を書きしかのように、等身大の学生が書いた卒業論文の書き方について綴ったブログもあるので、本記事よりはるかに優れたそちらの方も参照されたい。卒業論文で論文を書くのが人生で最後という人も多い。自分なりに精一杯書いたと思える卒論は、一生の宝となるだろう。

[photo]
http://to-a.ru/
http://www.alliancefr.org/
http://www.ldh-toulon.net/spip.php?article1066
http://le-lutin-savant.com/g-mers-oceans-geographie.html
http://www.ldh-toulon.net/spip.php?article1066
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http://fr.maieutapedia.org/wiki/Mondialisation_de_l’%C3%A9conomie#.Uw2OLON_t2E
http://www.amazon.fr/politique-culturelle-fran%C3%A7aise-diplomatie-langue/dp/2296006515/ref=la_B004MOR3D2_1_4/278-4019119-5301628?s=books&ie=UTF8&qid=1393983489&sr=1-4
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%80%95%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%88%B6%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%8B%E3%82%89%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A%E3%81%BE%E3%81%A7-%E5%B9%B3%E9%87%8E-%E5%8D%83%E6%9E%9C%E5%AD%90/dp/4409510495
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%80%8D%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E2%80%95%E3%80%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E7%99%BA%E4%BF%A1-%E6%B8%A1%E9%82%8A-%E5%95%93%E8%B2%B4/dp/446925083X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1393983578&sr=1-1&keywords=%E6%B8%A1%E9%82%8A%E5%95%93%E8%B2%B4
http://www.suntory.co.jp/whisky/museum/enter/mystery/novel/404.html
http://u-rennai.jp/contents/course/54/

  1. 日本支部は、札幌、仙台、愛知、大阪、徳島の5か所。 []
  2. LEGENDRE, Jacques, « Le rayonnement culturel international: une ambition pour la diplomatie française », Rapport d’information no.458 (2008-2009), fait au nom de la commission des Affaires culturelles et de la commission des Affaires étrangères, de la défense et des forces armées, 2009, p.15. []
  3. 日本では国際文化関係史研究は始まったばかりである。それゆえ、研究のほとんどが20世紀の東アジア地域に集中している。最新の論集として、以下を参照。平野健一郎、古田和子、土田哲夫、川村陶子編『国際文化関係史研究』東京大学出版会、2013年。 []
  4. CHAUBET, François, La politique culturelle française et la diplomatie de la langue : L ’Alliance française 1883-1940, Paris, L’Harmattan, 2006. []
  5. 植民地党に関しては以下を参照。ANDREW, C. M., P. GRUPP et A. S. KANYA-FORESTNER, « Le movement colonial français et ses principales personnalités(1890-1914) », RFHO, no.229. t. LXII., 1975, p.641-642. AGERON, Charles-Robert, France colonial ou parti colonial?, P.U.F., 1978. []
  6. AGERON, op. cit., p.123., 西山教行「『植民地党』としてのアリアンス・フランセーズ―植民地主義における言語普及」(『新潟大学経済学年報』24号、1999年)163-184頁。SUGIYAMA Yoshiko« La Tunisie de l’Allianace française et les premières années du Protectorat », dans CABANEL, Patrick (dir.), Une France en Méditerranée : écoles, langue et culture française XIXe-XXe siècles, Paris, Créaphis édition, 2006, pp.363-374. []
  7. 初代チュニジア特命全権公使ポール・カンボン、公教育視学総監ピエール・フォンサン、初代チュニジア公教育局長ルイ・マシュエル、チュニジア問題担当外務官僚ジャン=ジュール・ジュスラン、アルジェ大司教ラヴィジュリ枢機卿、白衣宣教会のチュニジア問題担当司祭シャルムタン神父、元公教育大臣であるポール・ベールとヴィクトル・デュリュイ、ユダヤ教徒アルフレッド・メラルグ、プロテスタントの大学教員ポール・ムロンのほか、元セネガル総督レオン・フェデルブ、スエズ運河会社の創設者フェルディナン・ド・レセップス、歴史学者エルネスト・ラヴィス、微生物学者ルイ・パスツール、人気作家ジュール・ヴェルヌ、編集者アルマン・コラン、オラン出身議員で植民地党の指導者ウージェーヌ・エティエンヌ、仏領アフリカ委員会会長を務めた王党派議員ダランベール公など。 []
  8. 1900年のパリ万博では、植民地の学校を模したパヴィリオンを設置し、表彰を受けている。1906年には、当時の植民地主義の担い手として重要な役割を果たした地理学会と、マルセイユ植民地博覧会を協同企画している。 []
  9. ROCHE, François et Bernard PIGNIAU, Histoires de diplomatie culturelle des origines à 1995, Paris, ADPF-La Documentation française, 1995. []
  10. 各国の対外文化政策機関として、イギリスのブリティッシュ・カウンシル(1934年)、イタリアのダンテ・アリギエーリ(1889年)とイタリア文化会館(1926年)、ドイツのドイツ・アカデミー(1923年)などがある。これらの国々のほかに、スペイン、アメリカ、ソ連、日本などでも、対外文化政策のための機関が作られる動きが戦間期に盛んになった。 []
  11. 筆者の場合、口頭試問では、研究史の整理や論文の意図、論理構成が明確な点を評価された。反対に、「原住民」や「民族主義運動」など細かな用語選択の是非のほか、組織変質の前後の断絶を強調し過ぎる嫌いがある点を批判された。 []

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Sota NAKAI

Sota NAKAI

1990年生まれ。兵庫県姫路市出身。フランス植民地史、文化人類学に興味。一般社団法人リディラバにも参加。