「マスゴミ」や「官僚主導」はどれほど<事実>であるか?

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石田 健

石田 健

株式会社マイナースタジオ代表取締役CEO。同社を創業後、2015年に株式会社メンバーズ(東証一部)に企業売却。早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。

本誌でも紹介した通り、日本における「報道の自由度ランキング」は低下の一途をたどっている。また、「NHKは政府の圧力と自己検閲の影を拭えない:ワシントン・ポスト報道」でもお伝えした様に、最近のNHK経営委員たちの言動は世界中から注目を集めており、政府とマスメディアの関係が改めて再考されるタイミングなのかもしれない。

また、最近でもネット言説などを中心に「マスゴミ」という言葉が取り上げられ、メディアの腐敗や偏向報道などが盛んに話題になっている。

どこまでが事実か?

当然のことながら、これらは大きく問題化される必要があるが、しかし一方で、こうした言説がどこまで”事実”であるのかを考える必要がある。

例えば、偏向報道として挙げられているトピックの一次ソースを辿ると、大手新聞社の記事が元になっていたり、逆にインターネットの根も葉もない噂話がいつの間にかソースになっているケースも見られる。

「ネットでマスコミの噓がバレる」という言説も、その噓を暴いているはずのソースが不明であることも少なくないため、結局のところ「どこが」「どのような理由で」噓であるか分からないようなものも数知れない。

「新興メディアの出現によって、メディアが民主化される」という言説には何となく期待を抱かされるのも事実であるが、とはいえ「民主化」という言葉に含意される未来がどのようなものかは、十分に明らかではない。

通信社が発信するストレートニュースを民主化することが決して容易ではないことは、多くの事例によって明らかになっているが、1そうではなく「論説」が民主化されるという見方であれば、それはニュースを題材としたお喋りの場がリアルからネットに移行しただけと言えるかもしれない。

こうしたメディアに対する懐疑は、政治に対する不信と並んで、人々の間で交わされる討論の題材として人気が高い。すでに、「世界を世界に説明する、でもどうやって?—東京都知事選挙に寄せて」という記事でも述べた様に、多くの人が居酒屋談義のトピックとして政治家の言動や、政府のあり方を問題化する光景は、決して珍しいものではない。

しかし、これらの言説が「事実に基づいたもの」であるかどうかも、やはり注意深く考える必要がある。もし、「マスゴミ」や以下で見るような「官僚主導」が単に政治への不満を述べる上での都合の良いスケープゴートになっているならば、それによってより根源的な問題が見逃されることとなる危険性があるからだ。2

官僚主導の打破?

政治的なトピックが議論される時に、しばしば「マスゴミ」とともに上がるのは「官僚主導」という言葉だ。こうした指摘は、政治家が「政治を官僚から取り戻す」や「官僚依存からの脱却」と述べている様に、単に居酒屋談義に留まらず、広く国民に膾炙した見方となっている。3では、この「官僚主導」という言説はどれだけ事実として確認できるものなのだろうか。

「官僚主導か否か」という議題は、戦後の政治学において長らく主要なトピックの1つであった。というよりも、「官僚主導」や「自民党の一党優位体制」といった問題は、第二次世界大戦を導いた戦前・戦中の政治体制への反省として、現状の政治体制を批判する上での主要なテーマであった。このため、日本の政治に対する「官僚主導」「自民党の利益誘導政治」という通説的な理解は、そのことを批判する論理としては存在しても、その前提自体が疑われることはあまり多くはなかった。

こうした日本の政治に対する捉え方に対して、正面から分析を挑んだのが政治学専門雑誌『レヴァイアサン』であった。この雑誌によって、日本の政治体制における「政官関係」が問題として取り上げられ、従来の「官僚主導」という図式的な見方に対して本格的な批判が加えられることとなる。また、合理的選択論の枠組みでプリンシパル(政治家)=エージェント(官僚)の関係から両者を捉えることで、「政治家が官僚にコントロールされている」、「政治家が官僚の巧妙な抵抗にあっている」といった言説を乗り越える研究は、日本人だけではなくアメリカの日本政治研究者からも盛んに進められた。

こうした研究の帰結として80年代に生まれたのは、官僚に比べて政党や利益団体の影響力を重視する多元主義的な理解であり、政治家は選挙で選ばれた正統性や「族議員」と称されるような者たちの政策に関する専門的知識などによって、その影響力を強めてきたという結論だ。(ただし、日本においてはこの「多元主義理論」にも注釈がつき、その後論争に決着がついたかの様に見えたものの、再び90年代に日本における政治的リーダーシップが議論の的になったことは事実だ。)4

いずれにしても、こうした議論がすでに“官僚の陰謀論的な見方”とは距離を置いていることは明らかで、日本の政治が抱える問題点を官僚主導に負わせる言説は決して的確であるとは言えないだろう。例えば、2009年に読売新聞がおこなった世論調査では、官僚を「信頼していない」とした人が73.6%にのぼっているが5、官僚vs政治家という構図が世論やマスメディアの調査においても、大きな位置を占めていることと比して、実証的・経験的研究の見解とは未だに距離があるようだ。

「マスゴミ」とはなにか?

一方の「マスゴミ」言説はどうだろうか?メディアの腐敗を問題にする際に、例えばWikipediaの「マスゴミ」6の項目では以下の4つの論点が中心的な問題として指摘されている。

  • 「報道の自由」や「知る権利」を楯に他者のプライバシーを蹂躙(後述の「事例」を参照)。
  • 記者クラブを作り、地方のマスコミ(ローカル局・地方紙)を排除して情報を独占する行為。
  • 日常的な偏向報道によるモラルハザードの誘発。
  • 「報道の自由」を正当化し、際限なく拡大解釈する体質。もしくは「報道しない自由」の名の下に、自身に都合の悪い、自身の意図に沿わないことは報道しない

こうしたメディア批判が、しばしば事例とともに思い浮かぶような、納得感のある物語ではある一方で、それが現在に始まったことなのか、あるいは昔から起こっていることなのか、そして日本独自の問題なのか、世界普遍の問題なのかというと容易には説明できない。しかしながら、メディアを「マスゴミ」と揶揄するだけでは、一体どこに問題があり、それはどのような原因から生じているかということを検討することは不可能だ。

この問題を考える際に、例えば記者クラブという「制度」からアプローチすることが出来る。こうした制度が、メディアの報道に対してどのような結果を与えているのかを定量的に、あるいは質的に検討することで、その因果関係を明らかにするというものだ。その際に注意することは、例えばこうした制度についてどのような「比較」をおこなうかという点がある。

ある制度が、「メディアの腐敗」として認識されるような何らかの帰結と関係があると仮定する場合であっても、A.)こうした腐敗が見られる国と見られない国を比較して、それぞれの国が持つ制度的な差異から明らかにするのか、それともB.)共通して腐敗が見出せる国にそれぞれ共通した制度的な要因が見出されるのか、といった違いがあり、それぞれに方法としての課題がある。(ジョン・スチュアート・ミルは、これらを「差異法」と「合意法」と呼んでいる)

もし、記者クラブという制度によって、マスメディアの報道に影響が生まれているという因果関係が見出されば、この制度が維持されているかぎり「マスゴミ」という揶揄が一定度の説得力を持つと言えるだろうか?

しかし、「記者クラブ」だけで彼らが「マスゴミ」と呼ばれているようには思えない。では、「偏向報道」の問題はどうだろうか?これは、しばしば偏向報道が「ある」/「ない」という二元論で語られるが、例えば毎日膨大な量の報道がおこなわれるなかで、「偏向」をどのように定義づけるのだろうか?あるいは、もしも「偏向ではない」報道が存在するならば、どれほどそこから逸脱すれば、それを「偏向」として認定することが出来るのだろうか?

ここには、因果関係の問題以前に、定量的なデータを集めることが難しい、あるいはその定義付けをおこなうことが容易ではないという課題もありそうだ。もちろんそれは不可能ではない。あるトピックについて、どのように報道がなされているかという単一事例の内部に潜り込んだ分析も可能であるし、例えばそれを数値化することによって何らかの指標をつくり出すことも不可能ではないかもしれない。しかし、それを諸々の問題を飛び越えた上で、一定度の妥当性を持った「マスゴミ」言説を発見することは、容易ではないだろう。

「事実に基づいた」?

「官僚主導」や「マスゴミ」といった言説が、必ずしも“事実”に基づいたものであると限らないならば(言うまでもないが「事実ではない」と主張しているわけではない)、なぜ現在において、こうした説明や批判が無視できない位置を占めているのだろうか?ここでは、そのことを推論するには至らないが、「官僚主導」の際に見た様に、こうした言説が戦後すぐに大勢を占めていたことや、そうした「啓蒙的な」あるいは「評論的な」言説が求められていたということと無関係ではないだろう。

しかし、この問題はより大きな問題へと関わってくるのかもしれない。それは、「説明をおこなうという営みは容易ではない」という点である。先ほど、「事実に基づいたものであるとは限らない」という曖昧な言い方をしたのは、言うまでもなく、こうした「官僚主導」や「マスゴミ」言説が事実であるか否かという判断を下すことが容易ではないことの裏返しだ。それが陰謀論的な使い方をされていることや、安易な批判をおこなう上での都合の良いワードとして使われている現状は否めないが、一方でこれが「事実ではない」と断罪するには綿密な論証・検討が必要であることは、すでに見てきた通りだ。

因果関係を説明することが容易ではないことに気付いた時、私たちはしばしば単純な説明に逃げたくなる。曰く、「マスゴミが悪い!」や「官僚主導が悪い!」といった類いのものだ。もちろん、学問の領域で「官僚主導」という言葉が使われることと、ネットメディアで「マスゴミ」という言葉が使われていることは区別する必要がある。ところが、多くの人が言論空間に参加できる様になり、そのことの意義が強調されるあまり、その言説の質的な違いにはそれほど注目が集まっていることもまた現在の問題点だろう。

こうした中で、因果関係を正当な手続きに基づいて検証をおこなうことは、それほど容易ではなくなっているのかもしれない。曖昧で、いくつもの留保がついた言説はしばしば無視され、淘汰される。それは、陰謀論や修正主義者らが付け入る格好の機会となり、良心や誠実性の欠けた言説によって侵食される危険性にますます直面することになる。

私たちは、こうした問題とどのように向き合っていくべきなのだろうか?

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  1. クラウドソーシング・ニュースサイトの失敗などは、こうした試みの可能性と限界を示している []
  2. ここでは、「事実」については踏み込まないが、社会科学における事実や“科学的な立場”を考える上で、伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会、2002年)は格好の入門書だろう。また、ここで扱われている「実証」や「事実」という言葉の使われ方の前提になっているような議論は、カール・ポパーやトマス・クーンに関連する入門書を、より政治学に拠った話であれば、キング・コヘイン・ヴァーバ『社会科学のリサーチデザイン―定性的研究における科学的推論』(勁草書房、2004年)やブレイディ・コリアー『社会科学の方法論争―多様な分析道具と共通の基準』(勁草書房、2008年)、最近では久米郁男『原因を推論する 政治分析方法論のすゝめ』(有斐閣、2013年)などが分かりやすい事例とともに政治的な議論における「説明」の方法をまとめている []
  3. 例えば、小泉純一郎『官僚王国解体論―日本の危機を救う法』光文社、1996年など []
  4. これらの議論をまとまった形で俯瞰するには、伊藤光利・真渕勝・田中愛治による『政治過程論』(有斐閣、2000年)や、平野浩・河野勝編『アクセス日本政治論』(日本経済評論社、2003年)、また建林正彦『議員行動の政治経済学—自民党支配の制度分析』(有斐閣、2004年)などが分かりやすい []
  5. http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6100/koumoku/2009032701.htm []
  6. 2013年2月19日19:18閲覧 []