今日のGoogleロゴは「平塚らいてう」=生誕128周年を記念

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『青鞜』誌の名前はわが国のフェミニズム運動史において、その創刊の辞「元始、女性は太陽であった」とともに重要な意義をもっている。

今日はその創刊の辞を書いた平塚らいてうの誕生日。Googleトップページも『青鞜』を手にとる平塚と女性たちのイラストに変更されている。記念日にあわせてロゴが変更される「Google Doodle」によるものだ。ここに描かれた平塚らいてうとは一体どんな人物だったのだろうか?

 

平塚らいてう、運動に捧げた生涯

 

180px-1st_Issue_of_Seito平塚らいてうは本名を平塚明(はる)という1 。1886(明治19)年、政府高官の裕福な家庭に生まれた。自由な学芸を求めて1903(明治36)年に日本女子大学の家政学部に入学するも、良妻賢母を旨とする保守的な教育方針に失望を覚え、独自に哲学書へ打ち込む。

そんな平塚を一躍有名にしたのは1905(明治41)年の心中未遂事件だった。相手は漱石の門下生であった森田草平。痴情のもつれに世間が眉をひそめる風潮は今も昔も変わらず、マスコミはこの一件をゴシップニュースとして煽り立てた。不名誉な卒業生を輩出することを嫌った日本女子大は、平塚の名を同窓会から抹消した。

「らいてう」の筆名はこのとき生れた。事件の翌年、平塚は同人とともに雑誌『青鞜』を創刊し、「らいてう」の筆名で寄稿するようになる。誌名は英国のスノッブ女性を指す蔑称である «bluestocking» を逆手にとって名付けられたもの。表紙イラスト(右図)を描いたのは後に高村光太郎の配偶者となる長沼智恵子である。

元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」。らいてうが掲載した創刊の辞は、現在に至るまでわが国のフェミニズム運動にとって重要な意味をもっている。

『青鞜』には野上八重子や与謝野晶子といったビッグネームも記事を寄せ、次第に「青鞜」派と呼ばれるグループが形成されていった。「青鞜」派は戦前におけるわが国のフェミニズム運動で中核的な役割を担った。Googleロゴには平塚の背景に、雑誌を読み権利に目覚める声なき人々が描かれている。

 

結婚、そして後半生

 

『青鞜』が成功をおさめる一方で、平塚の私生活にも変化が訪れた。結婚である。画家志望の青年・奥村博史との結婚は世間に衝撃を与えた。旧来の家制度をよしとしなかった平塚は、事実婚の形式を取った。

しかしながら、この結婚生活は長く続かなかった。奥村は「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」という言葉を残し、平塚のもとを去る。ここから、年下の男の恋人は「若いつばめ」と呼ばれるようになった。

以後、平塚は政治運動へのコミットを強めていく。女性参政権を求める運動や、世界恐慌時には消費生活協同組合(生協)の運動にも携わった。戦後はリベラル知識人の権威として反戦平和運動などに参加する。1971年に死去。85歳だった。

1905年の心中事件の際に平塚を同窓会から追放した日本女子大学は、後に彼女の名誉回復を正式に認めた。1992年のことだった。死してなお世間との闘いを続けた平塚の生涯は、私たちに感動を与えずにはいない。

なお、『青鞜』誌上に掲載されたテクストは現在も岩波文庫で読むことができる。興味を持ったという読者はぜひチェックされたし。

  1. 「明子(はるこ)」とする文献もある。 []

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