石田 健

石田 健

株式会社マイナースタジオ代表取締役CEO。1989年生まれ、早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。 株式会社マイナースタジオを創業後に、同社を株式会社メンバーズ(東証二部)に売却。Twitter : @ishiken_bot

「歴史は楽しくなくちゃいけない」 – 保苅実

夭逝した歴史学者・保苅実は、著書『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』1において、一見すると現代の科学においては物語や神話としか思えないような「歴史」であっても、「それは真の歴史ではない」として、却下する権利を我々は有しているのだろうか?という力強い問いかけをおこなった。

この問いかけは、当然のことながらアウシュヴィッツや南京大虐殺の存在をなかったものとする修正主義者たちの存在を肯定する危険性を孕んでおり、保苅はその問題に対して注意深く検討を進めていく。

ところが、保苅の逡巡とは裏腹に、歴史学において修正主義者の勢いは無視できなくなりつつあるように思われる。近年、異なる民族や集団に対する憎悪や偏見の思想を喧伝するような街頭デモが盛んに見られるようになり、また大阪の橋下市長の発言などに端を発して従軍慰安婦問題についての議論がより加熱したことを考えると、われわれはより一層、歴史における修正主義に対する自らの立場を明示する必要に迫られているようだ。

しかしながら、「誤った事実を排除し、正しい事実に基づいて議論をすすめる」ことが如何に困難であるかという問題は、60・70年代におけるポストモダンの論争と交差した様々な議論の中で十分に示されてきた。歴史における事実とはなにか?真実とはなにか?現実とはなにか?、そして解釈とはなにか?という問いの連鎖に行き詰まった頃、そのことがポジティブであれ、ネガティブであれ、歴史家たちは「厳密な事実とはいえないかもしれないが、限りなくギリギリのラインで物語と一線を画している」という平凡でありながらも、反論することが難しい答えを見出すこととなった。

科学の復権?

マルクス主義の没落とともに、この多少居心地の悪い答えは、歴史家を「科学」という用語から遠ざけるためには十分な役割を果たした。ところが、それが「社会科学」と「歴史学」の間に新たな距離を生み出すという副作用を持っていたことはそれほど自明ではないのかもしれない。歴史家が、芸術・文学との差異を考えることに腐心するあまり、政治学者や経済学者、あるいは社会学者との間でさえ、その大きな隔たりが生じつつあることに気づかなかった。

歴史家がポストモダン論争に足を踏み入れつつあった50年代、社会科学においてはゲーム理論の興隆や、社会選択理論の誕生、あるいは合理的選択理論の諸分野への応用など大きな変化が確実に勢いを増していた。社会理論と歴史学を接近させようというピーター・バークの試み2をはるかに凌駕するほど、社会科学の変化は激しく、そして著しいものであった。そして、国際関係論や政治哲学、あるいは社会学の“一部の”論者に強い影響を及ぼした社会科学の勢いは、アカデミックな枠組みを超えつつあるようにも見える。近年の日本においても「ビックデータ」や「統計的手法」などの言葉がビジネス誌を賑わすこととなり、“科学的手法”が明らかに一定の地位を占めていることが実感させられる。

こうした中で、歴史学の立ち位置はより不鮮明なものとなっている。歴史学が唯物史観との長き渡る決別を図っている間に、その外側では新たな科学が誕生していたことは、戸惑いを覚えるような現象であったかもしれない。

歴史学と科学

歴史学と科学についての再考が迫られる中、保苅の研究は不安定な位置へと追いやられているのだろうか。現代社会の合理性や科学によってすくい取ることができない“物語/神話”ですら、“歴史学”として引き受けてしまうのであれば、歴史学は、社会科学との断絶をこれまで以上に加速させ、芸術や文学であるという「非難」を受け入れることになるのではないだろうか?

ここには2つの背反する応答が存在しているように思われる。1つは、「歴史学はギリギリのラインで芸術・文学とは一線を画しており」、そして社会科学との断絶が深いとしても大した問題ではない、という応答だ。これはある意味では、現在の歴史学のあり方を的確に言い当てているのかもしれない。多くの歴史学科は、経済学部でも政治学部でもなく、文学部に置かれているし、おそらく人文学(あるいは人文科学)の一分野であると見なされている。これは決して安住の地とは言えないかもしれないが、少なくとも当面の間、波風を立てないためには、懸命な選択であろう。

ところが、もう1つの応答は、この回答に対する疑問という形で表出する。すなわち、そのことは歴史学の未来を奪っているのではないだろうか?という疑問だ。われわれは、少なくとも経済学部や経営学部、政治学部や法学部に比べて、歴史学の人気がないことを直感的に感じているかもしれないし、今後10年間で歴史学科の予算が爆発的に増大する未来は考えづらい。そうであるならば、この断絶を埋めない限り、歴史学が陸の孤島へと化してしまうことは不可避であり、われわれは社会科学への歩み寄りを始めなくてはならないのだろうか?

<歴史をする>こと

歴史が科学を標榜する時、それがマルクス主義の衰退によるものであれ、ポストモダンによるものであれ、なんらかの居心地の悪さを感じずにはいられない。社会科学における新たな潮流は、こうした戸惑いをより大きくする。加えて、この曖昧な態度に修正主義者たちがつけ込んでくる可能性について、われわれは再び頭を抱え無くてはならない。

ところが驚くべきことに(本当に全くもって驚くべきことなのだが)、保苅はこうした逡巡をあまり深刻に捉えていないように思われる。彼は、

とまあ、修正主義については、いろいろと言いたいことがあるっちゃあるんですが、とはいえ正直言ってこんなアホみたいな話につきあいたくないんですよ3

と、あっさり述べさえするのである。これは保苅が修正主義の問題を軽視していることを示しているわけではない。むしろ、彼は一章を割いてこの想定され得る批判に対して事前に応答を試みようとするほどには、この問題が大論争であることに自覚的である。

では、なぜ保苅はこの居心地の悪さを軽やかに乗り越えようとするのだろうか?いかにして、それは可能なのだろうか?

それは、彼がより科学的な歴史も、物語として包摂されかねないような歴史も、両立可能であると信じているからだ。

前述したように、科学から距離を置いた歴史学の未来がさほど明るいものではないかもしれない、という予見が前提とする「歴史」とは、<制度の内部にある歴史学>のことを指している。予算が分配され、研究費を獲得し、学位を取得するシステムに担保された「歴史学」である。限られたリソースの内部では、より社会に貢献し、その大義名分への実現可能性が高く、システムに貢献するものが生き残ることが約束されているが、保苅が試みが野心的である理由は、こうした<歴史>を「脱-システム化」することで、新たな<歴史>を構想することにある。

保苅は、<制度の外側にある歴史>という問題を立てることで、歴史が陥っているジレンマを軽やかに捨て去ろうとすらしている。この試みは、歴史と社会科学が持つ断絶を諦める硬直的なものではないどころか、そこに対して批判的な応答を双方から投げかけ続ける必要が生まれる緊張関係と相互関係を示唆している。

Doing History

ところが、この保苅の提案を受け入れた瞬間、われわれは新たな問題を突きつけられる。

わたしたちは制度の外側、あるいは既存の制度を乗り越えてすらも、<歴史をする>ことを望むのだろうか?

この問いは、明らかに本質的な問いかけをおこなっている。社会科学がアカデミズムの枠組みを抜け出し、修正主義者たちが街に出る頃、歴史家はなにが出来るのだろうか?それは、未だに<歴史>を硬直させる制度に寄り掛からないかぎり、成立しないほどにまで弱々しいものなのだろうか?

より直接的に言うならば、制度の内側から投げかけられる歴史家の言葉は、その制度によってのみ担保されるほど、力を失ってしまったのだろうか?制度の外にある歴史家の言葉は、その制度的な裏付けが無いために棄却されるべきなのだろうか?

果たして<制度の外側にある歴史>とはどのように成立するものなのだろうか?

保苅に何かアイデアがあったのかどうかは分からない。しかし、彼ならば、その答えを見つけるために Doing History をおこなうのではないだろうか。保苅は、制度の外側にある歴史を見つけるためならば、オーストラリアのグリンジに出かけてフィールドワークをおこなったように、新たなフィールドワークを制度の外側で始めるのではないだろうか。

あなたが今見ていただいている、The New Classic はこんなアイデアからはじまった。これはある種のフィールドワークであり、保苅の言葉を借りるならば、歴史実践(historical practice)の1つなのだ。どうだろうか?そんなに悪くないpracticeだと思っているが、いかがだろうか?

Via : www.freestockphotos.biz
  1. 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』御茶の水書房、2004年 []
  2. ピーター・バーグ『歴史学と社会理論』佐藤公彦訳、慶應義塾大学出版会、2009年 []
  3. 保苅、pp32-33 []