C.マレー『階級「断絶」社会アメリカ』を読む:マーク・ザッカーバーグは「見掛け倒しのエリート」か

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石田 健

石田 健

株式会社マイナースタジオ代表取締役CEO。同社を創業後、2015年に株式会社メンバーズ(東証一部)に企業売却。早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。

チャールズ・マレー『階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現』は、2013年に邦訳が発売されたものの、2016年に再び話題となった著作だ。

その理由は、言うまでもなくドナルド・トランプ米大統領の誕生にある。

本書の原著は2012年に出版されているが、アメリカは人種ではなく階級によって分裂しかけているというマレーの主張は、2016年の大統領選挙によって明確に提示された。多くの人、特にリベラルを自認している人にとっては、アメリカは分裂しているという本書の主張がトランプ当選という形で表出したことは大きな衝撃であった。

今回は、この洞察的な著作を紹介するとともに、私たちの社会がこうした問題と無縁ではないことを考えていく。

階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現

本書は、「新上流階級の形成」、「新下層階級の形成」、そして「それがなぜ問題なのか」という3つの構成から成り立っている。

タイトルから明らかなように、第一部ではアメリカに新たに登場した上流階級の存在が記される。こうした新上流階級は、単に経済的な成功者であるだけでなく、文化的にも類似しており、地理的に近接した場所に居住している。

マレーは、新上流階級の文化は「富によって可能となった文化だが(感性や嗜好を同じくする人々が集団を形成するには富が必要だった)、富によって芽生えた文化ではない」という。この文化は、認知能力の高い人々が同じ地域に集まって独自のコミュニティを作ったときに、彼らの際立った感性と嗜好によって芽生えたものだと説明される。

第二部では反対に、新たな下層階級の全体像が描かれるが、新上流階級の描かれ方とは少々異なる形式を取る。ここでは、建国以来のアメリカが抱いてきた「勤勉、正直、結婚、信仰」という美徳を基軸としながら、新上流階級と新下層階級がいかに異なる価値観の中にあるかが語られる。

マレーがこれら4つの建国以来の美徳を重視するのは、単に彼が保守派の論客だからではない。彼はこうした美徳こそが、アメリカという国家とコミュニティを維持するための重要なファクターとなっており、美徳の衰退という規範の変化こそが「人間が満たされた生活を遅れるかどうかに関わる変化」だと主張する。

そして、第三部ではこの現象がどんな問題を有しているかが検討される。マレーは、ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』を例に上げながら、アメリカでソーシャル・キャピタルが衰退しており、中でもそれが新下層階級において顕著であることを示す。

建国以来の美徳である「勤勉、正直、結婚、信仰」は、マレーに言わせれば幸福を形づくる重要な要素であり、それらが衰退しているということは、アメリカという国家にとって大きな危機であるという。こうして本書におけるマレーの主張は、以下の部分に集約される。

この国の社会経済的分布の片方には、自由社会の一員であるために必要な美徳を失いつつある人々が大勢いて、しかもその人数はますます増えつつある。ところが分布のもう片方には、何の問題もなく上手くやっている人々がいて、その人々がこの国を動かしている。(略)しかも、後者の人々はあまりにも孤立しているので、その他の地域でどういう問題が起きているかに気づいていないことさえある。

そしてマレーはこうした問題を回避するため、家族やコミュニティの機能を再強化すべく政府の介入をより減らすべきだという、リバタリアン的な結論に行き着く。

マレーについて

ところで著者のマレーはどのような人物なのだろうか。彼はアメリカエンタープライズ研究所の政治・社会学者であり、保守派リバタリアンの論客でもある。

彼がリバタリアンである時点でリベラルからの評判は良くないが、それ以上に彼が批判者を呼び込んでいるのは、1994年の著作『ベルカープ』が原因だろう。マレーはそこで、白人と黒人間にあるIQ差は一部が遺伝を要因とすることを主張し、人種差別主義者だと強い批判を浴びた。

『ベルカープ』に対しての価値判断はさておき、当時のマレーが科学的事実と価値規範の切り分けがなされていない的はずれな批判に晒されながらも、再び「身も蓋もない」ような現実の描写を中心に置きながら、強い批判を浴びることが容易に想像できる論争的な著作を刊行したことは、敬服に値する。

批判的検討

それでは、このマレーによる著作はどのように読まれるべきだろうか?

まず本書を批判的に検討するならば、大きく2つの方向性があり得るだろう。1つは、建国以来の美徳である「勤勉、正直、結婚、信仰」という概念の妥当性だ。

マレーはこうした建国の美徳こそが「アメリカ独自の市民文化」を生み出したと説明するが、この政治文化的な変数について、他国との比較を行っているわけではないため、それらがアメリカ独自の性質を持つものなのかは疑わしい。

ソーシャル・キャピタルや、美徳に限らない何らかの価値観が弱まることで、ローカルなコミュニティや延いては国家全体に大きな影響を与えることは直感的な論理ではある。しかし、建国の美徳こそが人の幸福を形成する重要な要素であり、新上流階級と新下層階級を分かつ大きなファクターだという主張には疑問は残る。

実際に、美徳の中でも「正直」についてはマレーも歯切れが悪い。犯罪という指標については、新下層階級において増加が見られると記されるが、犯罪については新上流階級と新下層階級の美徳の違いというよりも、その経済的な差異から説明するべきではないかという気もする。

そしてもう1つの方向性は、こうした問題に対するリバタリアン的な解決策だ。リバタリアンは少数派であり、その主張はウケが悪いことはマレー自身も想定しているが、やはりソーシャル・キャピタルや美徳の低下を「小さな政府」によって解決しようという論理には強い疑問が残る。

そもそもマレーの論理では、政府が介入することで人々は家族やコミュニティが本来果たすべき機能を奪われ、美徳が衰退したことになっている。しかしそうであれば、新上流階級と新下層階級の間に差異が生まれたことは説明し難い。

一般的に政府は、裕福な有権者に対して応答的であると見なされているが、新上流階級と政府の関係が深いのであれば、むしろ彼らこそがソーシャル・キャピタルやコミュニティ、そして美徳の衰退に喘いでいるはずだ。

しかし実際には、新下層階級の人々が政治からの疎外を感じているのは、彼らの声が政府に反映されづらく、現状の政治システムが不公平だと感じざるを得ないからであろう。

家族や信仰、労働に対しての価値観の変容は、政府の介入によってコントロールされるものではなく、世代の変化に伴って多くの先進国が一様に経験している現象だと想像される。すなわちその変化について、「大きな政府」であるか「小さな政府」であるかを説明変数とすることは正確な因果関係ではないだろう。

ただし、こうした規範やソーシャル・キャピタルの再構築に政府介入が望ましいかというのは別問題であるが。

本書の意義

結論部分、すなわち本書の重要な部分について筆者は意見を異にするが、それは本書の価値を減じさせるものではない。なぜなら、本書の意義はマレーによる結論だけではなく、その論争的な現状分析にも見い出せるからだ。

冒頭で述べた通り、本書が指摘するアメリカ社会の分断は、2016年のトランプ当選によってラディカルな現実を人々に再認識させた。トランプを傲慢で取るに足らない、人種/性差別主義者だとみなしていた多くのリベラル知識人にとって、彼の当選は説明の付かない現象であったし、その当選後には支離滅裂な解釈が蔓延した。

Brexitやトランプの当選、あるいは(阻止されたものの)ルペンの躍進は、ナショナリズムの台頭や反エリート主義、そして日本で流行りの言葉を使うならば、シルバー民主主義として説明され、知識人たちは社会に蔓延する”病理”を説明しようとした。しかしこうした幾つもの解釈よりも、マレーの著作は説得的であり、また意義を持つものに見える。

なぜマレーの分析のみが際立っているのだろうか?言い換えれば、なぜ彼以外の知識人は、社会の分断を見逃し続けているのだろうか?

なぜマレーだけが?

マレーの分析は、一見すると受け入れがたい。伝統的な結婚、宗教、そして家族やコミュニティが大事だという保守派の主張は、リベラルにとっては反直感的だ。筆者も、日本において「伝統的家族像」を掲げながら、道徳規範の再興を訴えている自民党に否定的であるし、それと同じく、過去の規範が衰退していることから、アメリカ社会の危機を説明するマレーの論理には同調しない。

しかし同時に、家族以外にも様々なレベルで存在するコミュニティの機能が弱まっており、そのことが社会を襲う危機の基盤にあることは、頷首せざるを得ない。

そうした問題意識は、決して保守派の専売特許ではない。マレーが参照するパットナムは、2000年に『孤独なボウリング』を上梓しているし、同書が問題視しているのは20世紀最後の数十年間であることから、この問題は過去数十年間に渡って指摘され続けた問題でもある。

もっと言うならば、フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは19世紀初頭のアメリカを見て、そのコミュニティーこそがアメリカ社会の原動力だと主張している。トクヴィルは、政府と市民に回収されない自発的な中間的集団をアソシエーションと呼んだが、こうした集団こそが民主主義を支えることを主張した。

トクヴィル以来、アソシエーションの重要性は多くの論者によって指摘されてきたが、こうした議論は過去数十年間、控えめに言っても眼前に迫った危機として認識されることはなかった。

社会階級の分断、そしてコミュニティーやアソシエーションの衰退という大きな問題が我々の社会を覆っていたにもかかわらず、ほとんどの左派知識人はこの問題を無視し続けた。例えばジョナサン・ハイトは、左派が1960年代以降、「multiculturalism(多文化主義)」 を題目とするアイデンティティ・ポリティクスに拘泥し続け、政治は経済的な利害対立ではなく、人種や文化的な分断を基軸とした対立になってしまったと手厳しく指摘している

マルクス主義の消滅以降も、階級の問題は消え去ったわけではなかったが、左派による議論の主眼は階級の問題からアイデンティティの問題へと移り変わってしまったのだ。

すなわち、なぜマレーの分析のみが際立っているのか?という質問にここで答えるならば、60年代以降の左派がこうした問題をほとんど真剣に扱うことがないまま、放置してしまったことが注視すべき要因であると言うことができるかもしれない。

しかしそうであるならば、この期に及んでマーク・ザッカーバーグのようなリベラルを自認する新上流階級の代表格が、コミュニティーの再構築を訴えていることは強烈な皮肉にしか見えない。

「見掛け倒しのエリート」

ザッカーバーグのような新上流階級は、平等を愛するエリートで、道徳的にも優れた人物だ。彼はアメリカ社会が分断される状況を憂いており、世界で最も巨大な会社を経営するばかりか、この社会の病理に対してもアクションを起こそうとしている。

しかし我々は、彼の優れた道徳性を賞賛するだけで良いのだろうか?

規範的に考えるならば、これは平等の問題だ。マーク・ザッカーバーグは確かに優れた知性の持ち主で、道徳的にも賞賛される人物だ。しかし彼が歴史上稀に見る大富豪となったのは、その卓越した才能によるものなのだろうか?

もしザッカーバーグとまったく同じ知性を持ちながら、スラム街で生まれ家庭は崩壊し、学校教育もまともに受けることができない人物がいたらどうだろうか?彼は運良く高校に入学して才能を発揮するかもしれないが、その能力を最大限引き出してくれる優秀な教師に出会わないまま不遇の3年間を過ごしたらどうだろうか?

彼は持ち前の努力と才能でハーバード大に入学するかもしれないが、自分の置かれた境遇を思い出して、ソーシャルワーカーを志したならば、彼が生涯かけて築くことができる資産とザッカーバーグが築いた資産の間には、天文学的な違いがあるだろう。

両者が得られる「利益」の差異は、個人の意思ではどうすることもできない境遇や僅かな選択の違いによって正当化されるだろうか?ソーシャルワーカーを選んだ彼の選択は、ザッカーバーグが受け取る「利益」よりも何百分の1に過ぎない価値なのだろうか?

もう少し身も蓋もないことを言うならば、平等について考えるならば、こうした思考実験をするまでもない。私たちの間には、足が速い人と遅い人、身長が高い人と低い人がいるように、知能が高い人と低い人がいる。知能が高い人がより大きな利益を得ることができ、そうではない人は低い利益に甘んじるべきだという論理は、一見すると「平等な競争」に見えるが、なぜそれらは足の早い/遅いという違いよりも、我々の利益を決定する上での最も重要な理由として正当化されるのだろうか?

我々の自由主義社会は、特定の「才能」や「能力」によって報酬が決定されるようにデザインされている。それは社会主義よりはマシな選択に思えるが、果たして平等という規範に適っているかというと、疑問の余地はある。このように考えるならば、新上流階級がワインを傾けながら綺麗な部屋の中で、社会の分断を議論することは、彼らの優れた道徳心を現しているというよりも、平等という規範に対する強烈な皮肉にしか見えないだろう。

マレーは新上流階級の孤立と無知を「見掛け倒しのエリート」という厳しい言葉で批判している。

結論

この問題は決してアメリカ社会に限ったものではないはずだが、その実像は不明瞭だ。日本でも格差社会という言葉が人口に膾炙して久しいが、異なるクラスタの文化的差異に注目する研究はまだそれほど多くないはずだ。

最近では、フリマアプリ「メルカリ」に現金が出品されて話題となったが、数年前に「マイルドヤンキー」という言葉が流行ったように、日本において新上流階級に該当するであろう人々にとって、新下層階級の実態を理解することは容易ではない。(そして筆者もそうである)

六本木ヒルズのオフィスでつくられたゲームアプリに、地方に住む低所得者がせっせと課金するような現実は、少し前からニュースのコラム欄で語られることはあったが、その分断が何を生み出しつつあるのかは、明らかになっているとは言い難い。マイルドヤンキーや(絶望の国の)幸福な若者たち、あるいは風俗で働く貧困女子のような「物語」は定期的にメディアを賑やかすが、マレーがおこなったような定量的なデータによって、その実態を把握しなければ全体像をつかむことは難しいだろう。

世界各国で政治を大きく揺り動かすような社会変動が生じているが、それらがデータに基づいた正しい分析によって十分に検討されているわけではない。我々が社会問題に向き合うためには、その実態を正しく把握し、冷静な分析によって政策に落とし込む必要がある。

マレーの著作は、現代社会を見通す上で最良の出発点であり、重要な針路となる研究の1つであることは間違いないだろう。