篠俣胡瓜(Kyuri SHINOMATA)

東京大学大学院修了後、某所に勤務。1987年生。日本中世史。

編集部注:本論は、東京大学大学院で歴史学を修了した筆者による寄稿だ。以前アップされた別の筆者による記事を受けて、歴史学についての記事を寄せてくれた。非常に長い記事になっているが、間違いなく一読の価値のあるものであり、ぜひじっくりと目を通していただければと思う。

大学生が歴史を勉強するとはなにをしているのか(転載)」。先日アップされたこの記事を読んでこう思った。 確かに立派だ。

でも、同じ歴史学科の学生だった人間として思うんだけど、実際はもっと地味じゃない?

もっと地味なことをして、地味なことに頭を奪われているような…。 こう、写本の一文字をめぐって東西奔走するような、地べたを這うが如き史学生の日常を伝えることはできないのか!?

そこでこの記事では、すごーく地味な、でも時にドラマティックな史学生の考証作業のプロセスをちま ちまと追ってみたいと思います。 ここで少し趣向をこらして、かなり昔、太平洋戦争が始まる少し前ごろの学生に登場してもらおうと 思います。

主人公のS君は、1916年生まれ。東京帝国大学の国史学科に進学し、日本中世史を専攻しま す。

S君が卒業論文の題材に選んだのは、鎌倉幕府の訴訟制度です。御成敗式目のように、鎌倉幕府の法 ・裁判に関しては多くの史料が残っていますね。 卒論では、六波羅探題(京都におかれた幕府の機関)の裁判制度の解明にもS君は手をつけます。その 一環として、S君が証明しようとするテーマは次のようなものでした。

《六波羅探題の裁許状(判決書)の継目裏花押は、六波羅探題の引付頭人によるものである》

…耳慣れないタームばっかりで恐縮ですが、ちょっとガマンして読んでもらえると幸いです。

まず、順序は逆からになりますが引付(ヒキツケ)について。これは幕府の裁判を担当する機関で、時 代によりますが、三方~五方の部局(「番」といいます)に分かれています。それぞれの番のトップが 引付頭人(ヒキツケ・トウニン)です。

次に、継目裏花押(ツギメ・ウラ・カオウ)について。花押とはサインのこと。幕府が発行する裁許状(=裁判の結果を伝える判決書)が長くなってしまう場合、紙のはしっこにノリをつけて次の紙を貼り つぎます。そのとき、紙と紙とが同じであることを証明するため、その境目(継目)にサインをしておくわけです。

※継目裏花押の実例として、 http://www2.lib.yamagata-u.ac.jp/mainlib/rarebooks/nakajo/nakalink.php?key=80の真ん中あたりの画像が分かりやすい事例ですね。(山形大学小白川図書館HPより)

なお現代でも、契約書が複数枚になる場合、一つの契約書であることを証明するため、複数の紙面にまたがってハンコを押すときがあるといいます(契印)。これに近いと思います。 ただ当時ハンコはあまり使われず、個人の場合は筆でグニャグニャ書く花押(カオウ)を据えるのが一般的でした。ということで、長い裁許状(判決書)の継目には、裏に花押が据えられることがあったわ けです。

ではなぜ「裏花押」なんてものに注目するのか?それは、当時の裁許状(判決書)の形式に原因があり ます。鎌倉幕府の裁許状(判決書)の文字面には、裁判における実際の担当者の名前はまったく出てこ ないのが普通なのです。

そこで、後世のわれわれが裁判の実質的担当者を知るほぼ唯一の手がかりとし てクローズアップされてくるのが、いま述べてきた継目裏花押なのです。 ※実は、昔の裁許状の継目裏花押は複数個ありました。それが(S君の仮説のごとく)引付頭人の花押 ひとつになるとすれば、幕府の裁判において、引付頭人が単独でより重い責任を負うことになったとい う重大な制度変更を立証できるわけです。

もう一度、S君がいどむテーマを掲げておきましょう。

《六波羅探題の裁許状(判決書)の継目裏花押(紙裏のサイン)は、六波羅探題の引付頭人によるもの である》

つまりS君は、 「ある六波羅裁許状の継目裏花押を、六波羅探題の引付頭人のものだと特定する」 ということが必要なわけですね。 それでは、S君の考証作業を一個ずつ追っていきましょう。

ステップ① 裏花押のある裁許状(判決書)を探そう

S君は裏花押のある裁許状(判決書)を探し始めます。ですが、彼のあつかう時期のもので裏花押を残 した文書はなかなかありません。 なぜなら裏花押を確認するためには、紙を貼り継がなきゃならないある程度の長さの、なおかつ写しで はなく現物で残っている裁許状(判決書)ではなくてはいけないからです。

※結局彼は、4件しか見つけられません。

そうして見つけたうちの一つは、和歌山県の高野山金剛峯寺に伝わる文書でした。嘉暦2年(1327)6月 27日付の六波羅裁許状です。 この高野山の裁許状は現物が遺っており、なおかつかなりの長さです。これは裏花押が期待できそうで す。 S君は図書館に向かい、『大日本古文書 家わけ文書第一 高野山文書之一』(1904年刊。)の94ペ ージを開きます。高野山所蔵の古文書の主な部分は、当時、史料編纂所編『大日本古文書』のひとつと して活字化されている最中でした。

ところが、第99号文書としておさめられているあの裁許状には、裏 花押があるかどうかが書いていなかったのです(裏花押みたいな要素を無視してしまうのは、昔の史料 集にありがちな編集姿勢ではあります)。

しかし、S君はめげません。S君は東京帝大の構内にある、史料編纂所に向かいます。 史料編纂所は明治時代、日本の正史を編むべく設立された研究機関で、明治国家の威信をテコに日本中 の史料のコピー(影写本という、手作りの精巧な模写)を作って保管しているのです。研究室の雰囲気 にあまりなじめないS君はここに入り浸っておりました。S君の見たい高野山の裁許状の写しは、すでにだいぶ前の1888年に作成されています。

ところが、そのコピーにも、裏花押は写しとられていなかったのです(これも、昔の調査にありがちな姿勢ではあります)。 「それでも裏花押は存在する」 と同級生に語ったかどうかは知りませんが、じかに現物に触れ、曇りなきまなこで見定めることをS君は決意します。そして1941年8月28日、彼は和歌山県高野山に降り立ちました。高野山霊宝館に保管さ れている原本を見に行ったのです。

当時、S君の住む東京から高野山までいくのはどれほど大変だったのでしょうか。1934年に出た旅行ガイド(『弘法大師壱千百年記念展覧会栞』)によると、東京を夜7:30発の夜行電車に乗れば、翌朝 7:30に大阪着、そこから乗り換えて、高野山につくのは二日目の10:00ごろであったといいますから、 片道およそ15時間の長旅です。往復の運賃は三等車で20円45銭。1934年の東京帝大生の平均生活費は 47円59銭/月であったといいますから、S君にとってなかなかの出費であったことは間違いありませ ん。

S君は史料編纂所史料編纂官の相田二郎のあっせんで、高野山霊宝館の館長・堀田真快師(安岡正篤の実兄!)の好意のもと、例の原本を閲覧することができました。 雪国生まれの辛抱強さの勝利でしょうか。彼はそこで、確かに据えられている裏花押を発見します。

嘉暦2年6月27日六波羅下知状裏花押

背の低いローソクに灯がともっているような、ともかく特徴的なかたちの花押です。 裏花押を模写したS君は急いで東京に戻ります。今度は花押の主を特定しなくてはなりません。

ステップ②同じ花押をもつ古文書を探そう

花押はサインなんでしょ。特定って、そんな難しいの?

…難しいのです。

このような裏花押は署名なく据えられていることがほとんどなので、これを特定するのはなかなか大変なのです。研究が進み史料が大量に発掘された現在でも、だれの花押か不明なものがたくさんありま す。 S君がどのような方法をとったのかは分かりませんが、S君は、運よく同じ花押が据えてある文書を見つ けることができました。データベースなどない時代ですから、実はこれ、けっこう驚異的な成果です。

史料編纂所の影写本を片っ端からめくりまくったのでしょうか。どれぐらいの時間がかかったのか見当 つきません。また世の中には類例が見つけられない花押というのもゴロゴロあるので、その点でもS君 はラッキーだったといえます。

さてS君が高野山の裁許状と同じ花押をみつけた文書は、摂津勝尾寺(現在の大阪府)に所蔵されてい るものです。勝尾寺文書の影写本第四巻に入っており、年次は正慶2年(1333)3月10日。 これは六波羅探題の命令に基づき、播磨国で反乱を起こした赤松円心を討伐するよう指令する文書で す。

このような反乱が結局鎌倉幕府の滅亡につながるので、崩壊直前(2ヶ月前)の幕府文書としても おもしろいのですが、この署名は

正慶2年3月10日小田時知施行状花押

「前常陸介(花押)」(「介」の字と花押とが少しかぶってますね) となっています。花押のかたちは、あの高野山の裁許状のユニークなものとだいたい同じであることが わかります。ここでもって、 「高野山の裁許状の裏花押=「前常陸介」」 ということが判明しました。

ステップ③「前常陸介」が誰なのかを探そう

さて、次は、「前常陸介(さきのひたちのすけ。以前、常陸国の国司だったものの称)」が誰なのかを 特定しなくてはなりません。そうしなければ、彼が六波羅の引付頭人であるかどうかも検証できません。

ということでS君は、鎌倉時代末期に活動した「前常陸介」という官職をもつ人物を片っ端から探し始 めます。 まず、六波羅探題滅亡までの動向を記した「光明寺残篇」(『新校群書類従』第十九巻〔内外書籍株式 会社、1932年刊〕に活字化されている史料ですから、比較的手に触れやすかったはずです)に、六波羅探題の部将として一軍を率いる「常陸前司」(前司=前国司。前常陸介と同義)という人物が何回か 出てくるので、勝尾寺の「前常陸介」と同一人物であるのはまちがいないようだとS君は確信を深めま す。ですが、この人物の実名は判明しません。

さて幕府が滅亡したのち、敗軍の将となってしまった「前常陸介」はどうなってしまったのか?S君はその線から攻めることにして、『続群書類従』第三十一輯で活字化されている「雑訴決断所結番交名」 を見てみます。これは幕府滅亡後にできた新政府(建武政権)の一機関の職員表なのですが、そこの二 番の奉行人の項目を見ると…

雑訴決断所交名

「常陸前司/時知 奉行」 という記載があるじゃないですか…!

ですが、S君はあくまで慎重です。 鎌倉幕府の幹部、いわば賊軍だった「前常陸介」が、おいそれと新政府の職員になれるものなのだろう か…?六波羅探題の「前常陸介」と新政府の「常陸前司時知」が同一人物である蓋然性を高める作業が必要、と彼は決意します。

ステップ④鎌倉幕府滅亡後の六波羅の要人の動向を確かめよう

もはやここは煩雑になってしまうので、省略します。 雑訴決断所結番一番の宇都宮公綱、二番の是円房道昭、三番の長井左近大夫将監高広、四番の二階堂道 蘊、八番の小田筑後前司貞知、佐々木佐渡大夫判官道誉…などなどの前歴を逐一洗い出して、幕府の人間が多く新政府に参加してるという「一般情勢」を論証します。

ここにいたって、「前常陸介」(勝尾寺文書)=「常陸前司 時知」(雑訴決断所結番交名)ということが明らかにできました。つまり、 裏花押(高野山文書)=「前常陸介」(勝尾寺文書)=「常陸前司 時知」(雑訴決断所結番交名) →裏花押(高野山文書)=時知 ということが論証できました。

ステップ⑤「時知」が誰なのかを探そう

考証も大詰め。次に、「時知」がどういう人物なのかを探さねばなりません。 中世を知るうえでもっとも頼りになる系図は、南北朝期にできた『尊卑文脈』(故実叢書の一つとし て、1903年刊行。出版したのは吉川弘文館。なんと、和装本!)という系図です。

ここでS君は「時知」を探します(1924年に刊行された『尊卑分脈索引』も使ったことでしょう)。

すると、藤原氏北家道兼流・常陸小田氏の系図に、「時知」という人物の名が。そしてその横には注釈 として

尊卑 小田氏

「六波羅頭人(…)常陸介・和泉守」 という表記があるのがわかります。つまり、「常陸前司時知」は、「六波羅頭人」(六波羅探題の引付 頭人)であることがここから判明するのです。

裏花押(高野山文書)=「前常陸介」(勝尾寺文書)=「常陸前司 時知」(雑訴決断所結番交名) =「(小田)時知 六波羅頭人/常陸介和泉守」

式を整理すると、

裏花押(高野山文書)=六波羅探題の引付頭人

ということになります。

かくして 《六波羅探題の裁許状(判決書)の継目裏花押(紙裏のサイン)は、六波羅探題の引付頭人によるもの である》 というS君の仮説は証明されたのです。

エピローグ

ここまで振り返った証明過程は、実は活字にすると5ページ程度にすぎません。このような論証をつみかさねてS君は卒業論文を完成させます。 この卒業論文は畝傍書房史学叢書のひとつとして出版されます。これが『鎌倉幕府訴訟制度の研究』 (畝傍書房、1943年)です。

卒業したS君―佐藤進一―は史料編纂所の所員となり、そののち東大文学部 教授、名古屋大教授などを歴任し、歴史学者の道を歩みます。 後輩かつ弟子でもある網野善彦は、その主著『中世東寺と東寺領荘園』で佐藤進一のことを、 「現在の中世史家のなかで最も卓越した実証史家であることを誰しも認めるであろう(…)」 と尊敬の意を隠しません。

佐藤進一が歴史学の研究方法について書いたものがあります(『日本史研究入門Ⅰ』〔東京大学出版会、 1954年刊〕中「研究法」)。寡黙な佐藤進一にしては珍しく、そこでちょっぴり自己を語っています。 曰く、自己の学問の出発点とは、「学問における精緻美」への憧憬と「未知のものへの関心」である、 と。―「精緻美」! これを読んだとき、自分は合点がいきました。

佐藤進一の精緻な考証は、美意識 に支えられているのか、と。 歴史とは何ぞや、歴史学とは何ぞや。そのような問を発していく上で、このような地道な実践が常にあ ることを忘れないようにしたいものです。これは、自戒として。

※補足

若き佐藤進一の行った考証は、史料集・工具類・データベースの充実により、もっと簡便にかつ迅速に 行えるようになった。

・花押の比定に関しては、史料編纂所から『花押かがみ』シリーズが刊行中であり、花押の人物比定は かなり簡便に行えるようになっている。また史料編纂所が提供する「花押カードデータベース」も便利 である。

・高野山文書や勝尾寺文書など、鎌倉時代の文書に関しては、竹内理三編『鎌倉遺文』(全46巻)とい うかたちでほとんどを一覧することができる。また現在では、史料編纂所の「鎌倉遺文フルテキストデ ータベース」で全文検索が可能である。

・「尊卑分脈」は、新たな校定を経て『新訂増補国史大系』の一環として出版された。

・なお現在史料編纂所に架蔵されている高野山文書の影写本を確認すると、佐藤進一が考証の材料とし た六波羅裁許状の前には継目裏花押の略写が描き込まれている。しかしその横には「継目裏=×印部分 =下記花押アリ/昭和十六年八月二十八日高野山靈寶館ニ於イテ/原本調査 佐藤進一」という註記が 添えられていることが確認できる。つまり、この花押写は佐藤進一が後から描き足したものである。