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コンゴは本当に「世界で最も貧しい国」なのか?:サプールの事例から考えるメディアのありかた

数日前より「【コラム】世界で最も貧しい国の男たちが全力でオシャレする理由」という記事がソーシャルメディアで人気を集めている。

世界で最も貧しい国のひとつ、コンゴ共和国。

中部アフリカに位置するこの国には、『サプール(Sapeurs)』と呼ばれるオシャレ過ぎる男達がいる。

大半の国民が1日1ドル以下で生活をするこの国で、アルマーニやプラダといった一流のスーツを身にまとい、見せびらかすかのように街中を歩き回るサプールは、決して富裕層というわけではない。彼らの多くはごくふつうの職に就き、給料の数カ月分をファッションにつぎ込むという“努力”によりサプールたらんとしている。オシャレのひとことで片付けるにはあまりに真摯で力強い彼らの本質は『平和を願うヒーロー』なのではないだろうか。

という内容で、

①「サプール」と呼ばれる男性たちが、

②「貧しい国・コンゴ」の人々であるにもかかわらず、高級なファッションを身にまとうことで人々を楽しませ、

③「彼らがサプールであり続けること、そのマインドを後世に伝え残していくこと、その行為自体が平和そのもの」だと主張している。

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「世界で最も貧しい国」という見方

結論から言うならば、

コンゴは「世界で最も貧しい国」ではなく、

こうした「貧しい国で力強く生きる人々」という固定概念を再生産する記事が拡散していくことは、いくつかの問題をはらんでいる

この記事を掲載する『しらべぇ』というメディアは、単なるバイラル・メディアではなく、「気になるアレを大調査」というコンセプトを掲げている。

コンゴや、その背景にあるアフリカについてのステレオタイプが、あたかも「調査」されたかのように語られ、それがソーシャルメディアで人気を集めることはどのような意味を持っているのだろうか?

「世界で最も貧しい国」ではないコンゴ

まず簡単な事実確認からおこなっていこう。ある国を「貧しい」と定義することは様々な指標があるが、単純に見るならば、コンゴにおける1人あたりの名目GDPは3000ドル程度。(2013年、世界銀行による調査1

これは、例えばサハラ以南のアフリカにおける平均の1人あたりの名目GDPが1700ドル程度であることを考えると、アフリカの中では決して低い方ではない。

日本は3万8000ドル、アメリカは5万3000ドルであることからすると、世界的に高い数字であるとはいえないが、アジアにおいてもフィリピンが2700ドル、インドネシアが3500ドルであることを考えると、「世界で最も貧しい国」という表現は的確ではない事がわかる。

いわゆる「最貧国」と称される、国連が定めた開発途上国の中でも特に開発が遅れている「後発開発途上国」に、コンゴ民主共和国は認定されているが、コンゴ共和国ではないことに注意する必要もある。

「大半の国民が1日1ドル以下で生活」

また、記事中にはコンゴを「大半の国民が1日1ドル以下で生活」と説明しているが、これも誤りだ。

コンゴの貧困率(Poverty Headcount Ratio)は、2011年時点で32.8%となっており、少なくとも人口の1/3以下という数値になっている。

また、「極端に娯楽の少ないその町」として指摘されているが、サプールが闊歩するコンゴの首都ブラザヴィルを「極端に娯楽の少ない」、「土埃舞う田舎道」と表現するのはミスリーディングだろう。

シャルル・ド・ゴールの家をデザインした建築家Roger Erellによって1949年につくられた聖アンナ大聖堂や、高さ106mのナベンバ・タワー(写真下)など、この街には多くの近代的な建物が見られる。

もちろんこの少数の事例から、「ブラザヴィルは豊かなのだ」と指摘するのは誤りであるが、この街のイメージを容易に決めることはできないという反証にはなり得るだろう。

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1枚の写真から、「ある空間が貧しい」と判断するのはあまりにも危険であるが、このブラザヴィルの風景は、この場所が「極端に娯楽の少ない町」と片付けられることを留保させるだろう。

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ちなみに補足としては、元記事で使用されている画像(本記事のトップにもあげておいた)は、コンゴで撮影されたものではない。これはギネスのCMのために南アフリカに撮影されたものであり、詳細はBBCで記事になっている。動画の風景から、「やはりコンゴは田舎道ではないか!」と述べることはできないのだ。

サプールは平和の象徴か?

そして最後に、「サプールが平和の象徴」であるという問題についても見てみよう。

コンゴの歴史家Didier Gondola氏によれば、サプールはこの国の社会運動家であるアンドレ・マツワ(André Matsoua)と深い関係を持っている。彼は、1942年に亡くなったが、1960年のコンゴ共和国独立にも多大な影響を与えた人物だ。

このマツワによって1926年に生まれた「ゆるやかに組織された反植民地のための運動」という組織が、サプールの源流になっていると指摘されている。フランスの「文明化された服」を着ながら、彼らは反植民地運動を展開していった。

現在のサプールと、この起源が直接的に結びついているとは言わないが、少なくともその始まりにおいて、サプールは抵抗の形式であったと言っても過言ではない。

彼らを「平和の象徴」とすることが「間違い」とまでは言えないが、記事の文中にあるように、サプールに「他人と争ったり競いあったりという発想はない」と言い切ってしまうことは、その歴史を忘却させ、植民地主義の問題を過去の記憶にしてしまう危険性をはらんでいるだろう。

なにが問題か?

以上のように3つの事実から、この記事における事実誤認について考えてみた。

しかしながら、コンゴが経済的に豊かではないことは確かだ。この記事では、コンゴのことが「貧しいからと貶められている」わけではなく、むしろ「貧しいにもかかわらず」サプールが存在しているからこそ賞賛されている。

コンゴは「世界で最も貧しい国」とまでは言えないかもしれないが、こうした「つまらない揚げ足取り」で心動かされる話に水を指すのは、いかがなものだろうか、という批判があるだろう。

一体、なにが問題なのだろうか?

なぜ人々はこの記事をシェアするのか?

それは、元記事が「アフリカ・コンゴ=貧しい」という固定概念、より強く言うならば、ステレオタイプを基盤として、ソーシャルメディアにおいて人気を集めている可能性があるからだ。

言うまでもなく、本記事の目的は「コンゴは実際には豊かなのだ」と主張することではなく、もちろんそこに多くの貧しい人が暮らしていることには同意するし、その事実を軽視することを意図しているわけではない。

この記事が目指すのは、元記事の中、そしてそれらがソーシャルメディアで多くの人気を集めている背景の中に潜んでいる、われわれの強固なイメージについて改めて考えることだ。

すなわちこの物語は、「大半の国民が1日1ドル以下で生活」するような「世界でもっとも貧しい国」で、「平和の象徴」であるサプールが闊歩するからこそ、シェアされるのではないか?と問いかけることだ。

もしサプールが、「経済的に豊かになりつつある国」での話だと説明されていたり、「意外にも経済発展している」という前提がつくならば、その感動は半減するだろう。

感動が感動として成立するためには、様々な要因があるが、そこに「アフリカ」や「貧しい」といったステレオタイプ的語句が欠かせないのは想像に難くない。

「いやいや、自分は単純にサプールに感動したからで、ステレオタイプなどは持っていない」という反論は、もちろんあるだろう。しかし、貧しい国と高級な服を身にまとう人々という「counter intuitive(反直感的)」な組み合わせが、このソーシャルメディア上での人気に一役買ったことは間違いなさそうだ。

counter intuitiveとはなにか?

この「counter intuitive(反直感的)」とは、面白い物語や研究、そして分析をする上では重要なファクターだ。

「一見このように思われているが、実はこうであった」という物語は、人々の関心もひきやすいし、それは興味深いストーリーを生み出しやすい。

今回のサプールについても、「コンゴは貧しい国、にもかかわらず、高級な服を身にまとう人々がいる」というcounter intuitiveな組み合わせが、この物語を盛り上げているようにも見える。

しかし今回のケースは、counter intuitiveな例ではなく、「一見すると人々のイメージを覆しているようで、実は従来のイメージを再生産しているだけケース」である。

これがもし、

①具体的な言説を示した上で、コンゴは貧しい国だと思われいることを示す
②その上で、実は経済成長しているという事実を示す

という構成であれば、counter intuitiveな物語を生み出しているとは言えるだろう。

ところが、今回は

①コンゴは貧しい国だ
②しかし高級な服を身にまとう人々がいる

という構成になっており、そもそも①の前提が「コンゴ=アフリカ=貧しい」というステレオタイプ的な見方を再生産しているだけなのだ。

加えて言うならば、彼らに「平和の象徴」というイメージが付与されることは、そこにオリエンタリズム的な眼差しが介入している可能性も指摘できるかもしれない。

メディアの在り方とはなにか?

ではなぜメディアは、ステレオタイプ的な見方を再生産することを警戒しなくてはならないのだろうか?

世の中において、ステレオタイプ的な見方が再生産される瞬間にはしばしば出会う。しかしなぜ、われわれはそこに水を指しながら、口うるさくそれを指摘しなければならないのだろうか?

個人的な考えとしては、メディアというのは知識人・研究者と大衆の媒介的役割を果たしているからだ。

研究者が、「貧しいアフリカ」「貧しくても頑張る人たち」という物語・ステレオタイプが持つ暴力性を打破するために、長い時間と労力をかけて事実を明らかにする。

一方で多くの大衆にとっては、こうしたことを細々と調べて、反直感的な事実を理解するための時間も余裕もない。

だからこそ、メディアがこうした(隠れていたが明らかになった)事実を多くの人々に伝えることで、人々に低コストで正確な情報や視点を届けて、知識人と大衆を媒介する必要があるのだ。

すなわち、メディアにとって最も警戒されなければならないのは、世の中に流布するステレオタイプや固定化されたイメージ像を再生産することだろう。

2つの契機

このサプールの問題に戻るならば、今回のソーシャルメディアでの人気は、「一見すると人々のイメージを覆しているようで、実は従来のイメージを再生産しているだけケース」の典型的な事例であるようと考えられる。

「貧しいと思われていたアフリカにも、こんなにオシャレな人々がいた」という物語は、多くの人を惹きつけるには十分であったが、それは実は「アフリカ=貧しい」というステレオタイプを基盤として成り立っており、彼らに「平和の象徴」としての役割を付与することで、物語はより美談へと昇華されている。

このことから、わたしたちは何を学ぶことが出来るだろうか?大きく2つのことが考えられる。

1つは、改めてメディアの役割を再考することだ。

2014年はバイラル・メディアが興隆し、朝日新聞による従軍慰安婦の議論などを通じて、メディアの役割について様々な意見が飛び交った。しかし、相変わらずソーシャルメディアでは美談や感動系の話が飛び交い、その真偽をたしかめるという最も基本的なことが抜け落ちたまま、シェアされ続けている。

今回の「しらべぇ」の記事は、もともとNHKのドキュメンタリーを題材にしているようだ。(それをそのまま記事にしたことへの批判的な指摘もある)

もとのドキュメンタリーにおけるコンゴの描き方については不明だが、もしソーシャルメディアでのシェアを狙って「最も貧しい国」という点が強調されたのであれば問題であるし、逆に無意識にそれがなされたのであれば、わたしたちが陥りがちなアフリカ=貧しいというイメージが強固であることを示す材料となるだろう。

「権力を監視するメディア」という大義名分の在り方や、ネイティブ広告などのマネタイズ・テクノロジー分野については、昨年大いに議論が進んだかもしれないが、2015年は「正しい事実を伝える」というもっとも基本的で、もっともシンプルな役割がもう少し見直されても良いかもしれない。

そしてもう1つは、ステレオタイプとの付き合い方だ。

2015年1月7日に生じたフランス紙襲撃テロ事件は、改めて西洋やイスラムという大きな概念についての再考を促しつつある。日本では「どんなテロからも表現の自由は守られるべきだ」という単純な構図に依拠する議論がしばしば見られるが、事態はより複雑で根源的な問題をはらんでいる。

この事件は、あらためて西洋が掲げる「表現の自由」を含むリベラリズムが、非西洋社会の理念・パラダイムとコンフリクトした時、それらはいかに調停されるべきか?という問題を浮き彫りにした。

こうした時に、わたしたちは「イスラム=テロ」「西洋=自由」という図式はもちろん、「西洋=欧米中心主義」「イスラム=寛容」という図式も退ける必要がある。ステレオタイプ的な構図を捨て去った上で、はじめて両者の主張を理解する土台が構築されるからだ。

しかし今回のテロによって、イスラムに対する、あるいは西洋社会に対するステレオタイプはより強まっていく局面があるだろう。日本においても、昨年話題になった「ヘイトスピーチ」の問題はステレオタイプの問題を浮き彫りにしている。

メディアはこの問題に最前線で付き合っていく必要があるはずだ。事態は複雑であるし、時には現実を理解するために単純な構図に落としこむことも必要であるが、メディアはステレオタイプの再生産に敏感すぎるほど敏感であるべきだろう。

結論

結論めいたものを言うならば、今回の記事は、決して「誤った情報を伝えている!けしからん!」とサプールの記事を糾弾することを目的としているわけではない。むしろ、この2つの契機からより広範な議論が沸き起こることを期待している。

今回のコンゴについての基本的な情報も、調べてみればすぐに判ることで、世界銀行やGoogleはまとまった情報を提供している。しかしこうしたプロセスが抜け落ちしていることで、わたしたちはネットのメリットを十分に活用できていないような気がしている。

この問題を効果的・抜本的に改善する手立ては存在しないだろう。唯一可能なのは、こうした問題を見つけるたびに、(鬱陶しがられながらも)細かい指摘を繰り返して、より良い理解を見出していくことだけだ。

わたしたちは、コンゴが貧しい国でなかったとしても、サプールの人々がもつ魅力を感じ取れるはずだ。むしろ、この国が「意外にも」経済成長を遂げている事実を知ること、サプールの歴史がフランスの植民地支配と関わりを持っていることなどを知れば、その魅力は一層増してくるかもしれない。

サプールの物語は、そのきっかけとして十分な魅力をもっている。

  1. https://www.google.com/publicdata/explore?ds=d5bncppjof8f9_&met_y=ny_gdp_pcap_cd&idim=country:COG&hl=ja&dl=ja []

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KEN ISHIDA

KEN ISHIDA

本誌編集長。1989年生まれ、早稲田大学文学部で歴史学を専攻した後に、同大政治学研究科修士課程修了(政治学)。 本誌を運営する株式会社アトコレの代表取締役CEO。専門は国際関係史や日本近現代史だが、本誌ではテクノロジーや経済から国際情勢まで幅広く担当している。 Facebook : Ken Ishida / Google+ : Google / Twitter : @ishiken_bot

4件のコメントがあります

  1. 元記事を擁護するわけではないが、この記事もアフリカを知らないが故のミスリードが心配。鉱物資源に恵まれているからそれなりにGDPは高くなるが、海外企業のシェアが高いだろうし、一般国民がその恩恵を受けているか疑問。一般にアフリカは加工技術が未熟で輸入に頼らざるを得ず、また農業生産性も低いため、相対的にアジアの後進国の国々よりも物価、人件費が高くなり、GDPを押し上げている要因にもなっているのでは?とにかく、GDPで貧しい、貧しくないは計れない。最も貧しいは確かに疑問の余地があるが、実は貧しくないかのようなミスリードは問題。また、首都中心部の豪奢な建物を挙げているが、これこそ例外。多くの住宅地は未舗装で基礎インフラが整っていない。しかもコンゴは長引く紛争のダメージから立ち直っていない。アフリカ=貧しいはステレオタイプかもしれないが、コンゴ含む多くのサブサハラの国民にとって事実と思いますが。

  2. ハイブラの値段わかってんのか
    日本人でも早々手が出ないぞ
    視聴者が日本人である以上貧しい国で力強く生きてるのは事実なんだから
    言いがかりレベルの難癖だな

  3. 言ってることは一理ある。元記事の「平和を願うヒーロー」という表現は確かに過剰的かもしれない。しかし、ややひねくれた見方のように思う。

    1. そもそも問題としている点が、元記事と異なっている。メディアの在り方についての一論としては、読める。