石田 健

石田 健

本誌編集長。1989年生まれ、早稲田大学文学部で歴史学を専攻した後に、同大政治学研究科修士課程修了(政治学)。 株式会社マイナースタジオ代表取締役CEO。Twitter : @ishiken_bot

レオ・メラメドは、シカゴの金融先物市場を創設した伝説的な人物として、現在でも広く尊敬を集めている。1970年代に、彼によって多くのデリバティブ商品が取り扱われることになった「シカゴ・マーカンタイル取引所」は、先物取引やオプション取引の世界的な中心地だ。(写真下)

財界人のみならず、ジョージ・W・ブッシュやトニー・ブレア、そしてバラク・オバマなどの政府要人までもが信頼を寄せるメラメドだが、彼が「日本のオスカー・シンドラー」として知られる杉原千畝に命を助けられた6000人の1人であることをご存知だろうか?

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ポーランドからの脱出

メラメドは、1932年にポーランド北東部の街ビャウィストクで生まれた。しかし、1939年9月1日にナチス・ドイツのポーランド侵攻が始まったことで、一家は隣国リトアニアに脱出することになる。

そこで、リトアニアのカウナス領事館に赴任していたのが杉原千畝だ。彼については、日本でも広くその業績が知られているが、ナチス・ドイツの迫害によって欧州各国から逃れてきたユダヤ人など6000人もの人々に大量のビザを発給して命を救った人物だ。

当時のリトアニアはソ連に占領されていたが、各国の領事館・大使館はソ連によって閉鎖を命じられたために、業務を続けていた数少ない日本領事館に難民が殺到することになる。人々は、ナチスとソ連の脅威によって自らの命が危機にさらされていることに気付いており、必死の想いで領事館にビザ発行を求めたのだ。ユダヤ人迫害の事実を知っていた杉原は、外務省から厳しい命令を受けながらも、それらを無視してビザを書き続けた。彼は、いよいよ領事館の閉鎖命令を無視できなくなってからも、ホテルや列車でビザを発給し続けた。

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弁護士から「市場の伝説」に

こうして多くの難民とともにビザの発給を受けたメラメド一家も、シベリアを経由して日本へ脱出することに成功した。その後、1941年に海を渡ってアメリカ・シカゴに住むことになったメラメドは、法律を学ぶことになる。1965年まで弁護士を務めた後、67年にシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)のボードメンバーに選ばれた彼は、69年にその会長へと就任する。その後70年代にかけてメルメドが、金融商品や先物取引などの積極的な取り組みを進めたことで、CME はこうした分野での世界的な地位を築いていく。

現在彼は、CME Groupのボードメンバーとともに、自身のコンサルティング会社でCEOをつとめている。彼の功績は多くの経済人が認めるものであり、金融先物市場は「過去20年の最も重要な技術革新」であると言われるとともに、シカゴ・トリビューン誌はメラメドを「20世紀のビジネスにおいて、最も重要なシカゴ市民10人」に選出している。

杉原への感謝

メラメドは、現在でも杉原がおこなった勇気ある行動を賞賛することを忘れていない。自身の命を懸けてビザを発給し続けた行為を「奇跡」だと述べるメラメドは、「それは一人の男が、何が正しくて何が間違っているかを理解して行動し、立ち上がったことによって生まれた」と述べる。

また、ビザが発給された後のメラメド一家が日本に到着した際のことを「日本人は全く敵意が無く、両手を広げて我々を歓迎し、食べ物と住む場所を与えてくれた」と回想する。

最近日本を訪れたメラメドは、杉原千畝の功績に感謝を示すとともに、安倍首相にも面会して、この数ヶ月にわたる経済政策やアベノミクスについて意見を交わした。

メラメドの物語は、杉原が命を救った難民たちの中でも、ほんの一部でしかない。政府や外務省の命令に背き、厳しい非難を受ける中でビザの発給をおこなった杉原は、日本に戻ってからは不遇の後半生を過ごすことになる。政府によって公式に名誉が回復されたのは、2000年の河野洋平外務大臣による演説においてだった。

Photo : www.risk.net
石田 健

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本誌編集長。1989年生まれ、早稲田大学文学部で歴史学を専攻した後に、同大政治学研究科修士課程修了(政治学)。 株式会社マイナースタジオ代表取締役CEO。Twitter : @ishiken_bot